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路線図



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−鉄道線−

・本線 (社)水城〜田賀本町間

 全線単線、水城〜串本間は電化されています。
 水城から北出水までは水城西部の丘陵地を走り、
 小松沢からは沿線最大の串本集落を走ります。
 串元浜を過ぎると断崖絶壁にへばりつくように進み、
 金島口で金島神宮への連絡船と接続します。
 田賀本町は田賀集落の中心地からはやや離れています。
 利用者は串本と船地の両駅が一番多く、
 ほとんどの利用者は記念橋で軌道線に乗り換えます。
 かつては金島観光の需要もありましたが、道路整備により、
 金島観光客のほとんどはバスとマイカーに流れました。
 また、石切山からの石材の輸送も行っていましたが、
 国鉄貨物再編に伴い、トラック輸送に切り替えられました。
 起点となる(社)水城駅はJR水城駅の裏手にあり、
 繁華街から離れてしまうため、利用者は少ないです。

・高久線 高久町〜高久役場前

 全線単線、電化路線です。
 かつては、半島西部の三浦・久地方面までの大幹線でしたが、
 バス・マイカー利用の増加により、大部分を廃線、
 バス転換が困難であった区間のみが高久線として残りました。
 高久役場前は集落の中心にあり、利用が多かったのですが、
 近年、マイカー利用が増加したため、利用者が減少。
 補助金を受け取るため路線自体は存置されていますが、
 電車は朝昼夕の三回しか動きません。


−軌道線−

・軌道線本線 市駅前〜堀川横町〜水城港

 市駅前〜堀川横町間は複線、残りは単線、全線電化です。
 水城の繁華街・堀川や観光地である高崎山公園を通り、
 北部工業地帯を抜け水城港に至る路線です。
 中心市街地区間においては高頻度運転により利用者を獲得、
 郊外区間では高速運転によりバスに対抗しています。
 富士見坂〜高崎口間のみ専用軌道となっています。

・公園線 県庁前〜富士見坂

 全線単線電化です。
 「環状線」と呼ばれる、水城駅前-富士見坂-市駅前系統を中心に、一部の系統の電車も経由します。
 沿線は古くからの市街地であり、「旭屋百貨店」をはじめ、老舗百貨店がしのぎをけずる繁華街でしたが、
 近年は百貨店の撤退も相次ぎ、シャッター通りが広がるなど閑散とした町になってしまいました。

・駅前線 水城駅前〜水城公園

 全線複線、電化の路線です。
 官営鉄道が水城まで開通した時に、連絡のために開通した路線です。
 最近まで途中駅は無く、水城公園を出た電車は真っ直ぐ水城駅を目指していましたが、
 1989年に駅前再開発によって誕生した「大手プラザ」の前に同名の電停が設置されました。
 かつては、新一ノ宮への急行電車等も発着していましたが、現在は「市駅」が町の顔となっており、
 軌道線も2系統が発着するのみとなっています。

・記念橋線 堀川横町〜記念橋

 全線複線、電化の路線です。
 記念橋駅前で鉄道線からの乗客を受け、市内最大のターミナルである市駅へと運びます。
 バスとの競合もありますが、渋滞の影響を受けない電車が選択される傾向にあるようです。
 金物前と記念橋の間の一部区間が専用軌道となっています。


−廃止線−

・石切線 石切山〜串本〜串本港

 もともと「串本鉱業鉄道」として開業した路線でした。
 当初は石材輸送を目的としていましたが、創業者は半島に点在する観光資源に着目。
 観光輸送を目的とする「水城鉄道」を設立し、同社に買収される形で「石切線」となりました。
 このとき、串本鉱業鉄道の役員はそのまま水城鉄道の役員となっていることから、
 一般にはこの「石切線」が、水城鉄道の最初の路線ということになっています。

 戦後しばらくは輸送量が伸びていましたが、後に輸送量は減少。
 串本港からの定期航路に接続することで旅客の確保に努めたりもしましたが、減少は止まらず、
 1981年には石切山〜串本間で旅客営業終了、1985年に全線廃線となりました。

・三浦線(同支線) 高久町〜三浦〜久地港・三浦〜本三浦

 三浦線は、観光資源豊富であった三串半島西岸の開発を目論んで建設された路線です。
 金島観光と石材輸送により資金力があったことと、三串半島西岸に軍需工場建設の計画があったことから、
 追加出資から建設まで順調に進み、1937年に全線を一度に開通させ、
 1939年に、軍港の置かれた本三浦と三浦の間の支線も開通しています。

 当初は貨物輸送中心でしたが、沿線に久地・三浦・中串・小松谷といった小集落が連続しており、
 戦後は旅客輸送が年々伸びていきました。
 1952年に電化されると、本線と共に急行列車の運転も開始され、
 久地港〜田賀本町や本三浦〜佐賀島への延伸が計画されるなど、
 水城鉄道を支える大路線へと成長していきました。

 しかし、三串半島西岸の道路整備が進むと、利用は減少。
 特に、1968年に高規格道路の「三水国道・水城高速道路」の整備は影響が大きく、
 1968年度には旅客・貨物とも大幅な減少を記録してしまいました。

 その後も積極策を続けましたが、旅客は完全に自家用車とバスへシフト。
 最末期には「猫しか乗らない水城電車」とうたわれるほど、悲惨な状況にまで転落しました。
 1970年廃線。線路撤去費用と車両廃車関連費用が大量に発生し、
 これが直接の原因となって、水城鉄道は同年に赤字に転落しています。

・本線末端区間 田賀港〜田賀本町

 田賀港は半島の先端にあり、古くから漁港として栄えていました。
 水城鉄道ではこの田賀港から国鉄へ、鮮魚貨物列車を運行することを計画し、
 金島口から延伸される形で田賀港までの路線が開通しました。

 戦後しばらくは旅客・貨物共輸送が伸びていましたが、その後の輸送量は頭打ち。
 田賀港〜田賀本町間は田賀の集落から外れたエリアを走るため、旅客はかなり少なく、
 ほとんどが田賀港〜水城間の鮮魚輸送が大半を占めていました。
 しかし、その鮮魚輸送も1984年の国鉄貨物再編により中止、
 同区間はその存在意義を失ったことから、1985年に廃線となりました。

・水城港線 出水〜水城港

 もともと、整備された水城港への貨物輸送のために建設された貨物支線でした。
 戦時中には貨物・旅客共それなりに輸送量がありましたが、
 当初より水城港には、国鉄の貨物線が東水城駅から乗り入れてきており、
 戦後には貨物輸送も完全に国鉄側にシフトしたことから、1946年に廃線となりました。

・参宮軽便線 一ノ宮〜中小島

 参宮軽便線は、国鉄二浜線の一ノ宮駅前にあった「(参宮)一ノ宮」駅から、
 水宮とよばれた「中小島天満宮」の門前にあたる「中小島」駅まで伸びていた路線です。
 名前の示すとおり、水城鉄道内では最後の軽便路線でした。

 戦時統合により水城鉄道に統合され、水城鉄道参宮軽便線となりました。
 一ノ宮駅からしばらくは狭い商店街を併用軌道で抜け、町外れでは農道の脇を走り、
 小島に渡る区間では細いガーター橋で海を越えていました。

 線路事情の悪さはあったものの、小島へ渡るためには船しか交通手段が無かったため、
 比較的利用は多く、道路整備により旅客が減少するかと思えばスピードアップして旅客が増加するなど、
 かなり順調な路線で、水城鉄道の収益柱の一端を担っていましたが、
 1964年、台風の影響により、海の上の鉄橋をはじめ各所に大きな被害があり、
 1965年には全線廃線となってしまいました。

 廃線後、状態の良かった車両については台車を交換するなどした上で、水城鉄道線内で使用されました。

・軌道一ノ宮線 栄町〜新一ノ宮

 一ノ宮乗合馬車という会社が、中小島天満宮の参拝客輸送を目的に敷設した馬車鉄道が前身です。
 途中の昭和化学前電停から終点の新一ノ宮駅までは専用軌道となっていました。
 戦前には一ノ宮参宮鉄道に吸収され、戦中に水城鉄道に統合されています。
 戦後、ターミナルだった(旧)栄町駅から線路を延伸、既存の軌道線と接続し、
 水城駅前〜新一ノ宮間で、路面電車としては珍しい急行運転を行い、利用者を獲得しましたが、
 高度成長期に沿線が急速に発展したことから、自動車が道に溢れるようになり、所要時間が増加。
 いったんは国鉄から流れた客が再び国鉄側に戻ってしまったことから、利用者が減少してしまいます。
 その後も沿線の発展は続きましたが、道路整備に伴い利用者は減少。
 1973年にバスに使命を譲り、廃線となっています。

・軌道宮ノ越線 東駅前〜みさき灯台前

 もともとはみさき灯台前〜宮ノ越間の路線でしたが、1946年に宮ノ越〜東駅前間が開通しています。
 水城北東部の工業地帯と、宮ノ越〜東駅前あたりに広がった新興住宅地を結んでしました。
 他の軌道線からは独立した運用が組まれており、利用もそれなりにありましたが、
 市街地が広がるに連れ、利用者の流れが東駅前方面から市の中心部を向くようになり、
 人の流れとずれてしまったため、1973年に廃線となりました。
 廃線後は、みさき灯台〜市中心部や宮ノ越バスターミナル〜市中心部のバス路線を中心に利用が多く、
 赤字の水城鉄道バスの中で、数少ない黒字路線となっています。


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